国分寺台の歴史

国分寺台だよりのバックナンバーをとのご要望があり、広報部で相談した結果、取り敢えず最近号の中から海老名国分寺台の歴史についての寄稿を掲載しました。

国分寺台のはじまり

  昭和38年5月に入居した20戸の第1期の私たちは、本当に何もないところから始まりました。とにかく隣組からの出発です。出来る人から1年交替で組長を立て、大谷の一部として組込んでもらい大谷団地として生き始めたのです。

  広い冬枯れの芒野に火がついて、大谷の消防団のお世話になって、皆で火を消した事もありました。

  しばらくして大谷の消防団から半鐘が届けられ、20戸の真ん中に櫓を立て半鐘をつるしました。「火が出た時は叩いて知らせて下さい」との事で本当に心強く有難く感じました。その後、20戸で組合費を出して、その中から大谷の消防団に分担費として寄付しました。

  入居したばかりの海老名には、医院は海老名駅近くの坂本医院しかありませんでした。お年寄りや、小さい子どもを持つお父さんお母さんたちはとても不安でした。早く近くに病院ができ、安心して住みやすい街を、待ち望む気持ちは、大変強かった事を思い出しました。

  5年後、1,000戸を超えた大谷団地の中にも開業医が2軒できた時は、本当に心強いものがありました。

  学校は国分にある海老名小学校・中学校の古い校舎。海老名ではまだ学校給食はなく、毎日お弁当を持たせました。

  ひょうたん山の下を通り国分南原を抜ける通学路は草ぼうぼうで、20戸のお母さん達で草刈りをして、子ども達を学校に送り出しました。学校帰りには通学路近くの小川でザリガニを取り、泥だらけになりながら大喜びで帰ってきた事を思い出します。

  入居当時は自家用車を持つ家は少なく車庫付の家は建ちません。電話は2軒で1台の親子電話。時あたかも池田勇人首相の所得倍増論の掛け声のもと景気は上向きの高度成長時代。はじめの2年間は20戸のままでしたが、昭和40年頃から、建てると売れるようになり、値段も高くなりました。それでも奥へ奥へと家はどんどん増えていきました。

  待ちかねた商店街は昭和40年前半には出来上がり、団地の中で買い物が出来るようになりました。住む人が多くなったため、商店はどのお店も大繁盛で活気にあふれていました。働き盛りのお父さんと育ち盛の大勢の子ども達、元気なお母さん達で賑わう街は、希望に満ちていました。同じ頃、

道路が舗装されバスが駅まで通るようになりました。当時は現在の第7バス停が終点での運行でした。けれど朝の通勤・通学の時間帯は満員で、第3、第2バス停は ほとんどが通過です。お父さん達は相変わらず駅まで歩く日々

でした。昭和41年、商店街の西側に大谷小学校の建設が始まりました。昭44年4月1日に開校となり大勢の子ども達が学びました。 公園が整備され、子どもやお年寄りが楽しむ場もでき、住みやすい街となっていきました。

  役場は今のホテルオークラと第1ビルの所に、新しい庁舎が建ちました。駅前の田んぼも なくなり、都会らしく商業施設や医療施設も出来て暮らしやすい街となりました。 

  多勢になった大谷団地もそろそろ大谷からの自立の時を迎えます。丁度その年、昭和41年3月、私達の家が当番で班長になりました。そして昭和42年4月、現在の区割りの町内会が出来て、多くなった班長さんが集まり、 第1回目の国分寺台の自治会の総会を開催する事となりました。その頃、国分寺台には集会所がなかったので、新しい庁舎の会議室を借りて行いました。

  海老名も人口が増え、昭和46年(1971年)11月1日に海老名市が誕生しました。

  昭和49年(1974年)7月1日、大谷から国分寺台へ名称が変更されました。 

  当時の記録は今、残っておりません。現在の自治会館にも昭和50年からのものしか保存されていませんでした。 

今年また、何度目かの役員が回って来ました。総会に出て「第45回定期総会」とあるのを見まして感慨深いものがあります。 

  海老名に住んで51年目になります。本当に永く住んでみて、大きな災害に会う事もなく 幸せに過ごせた事を感謝いたしまして、当時の事を記させて頂きました。

            野澤 時子 記


追記

 児童館が昭和45年(1970年)にでき、しばらくはそこで会合を開いていたようです。旧自治会館は昭和55年に建てられ、平成21年に建て替えられました。

 当初、バスは第7バス停までの運行でしたが、昭和45年2月に第12バス停まで伸び便利になったそうです。昭和59年12月に深夜バスが運行開始となりました。